この話題はこれでひとまず終了~こころのありかたをととのえる

こんにちは~、アーティストchiguです。

オートクチュール刺繍、手紡ぎ&手織りをしております。


ふと思い立って書き始めた「制作のためにこころのありかたをととのえる」ってなんだ?!シリーズ、ひとまず第三弾の本日で終了です。

前のふたつはこちら。


今日は、自由でいるってことについて。長くなりそうだな。


制作のために、ということもあるけれど何よりも自分のために、とても気を付けていることがある。

心はというか、魂はというか、とにかく自由であることだ。

生活していれば時に自分ではどうすることもできない事情で、物理的には自由とは言い難い環境に身を置かざるを得ない時もある。

でもどんな時でも自分の考え方や感じ方ひとつで魂が自由でいることは可能だと私は信じている。


で、もっとも自分を不自由にしやすいのは自分だ、というのはここ何年も続いている私自身のテーマ。

ちょっとした「そんなの当たり前じゃん」って考えひとつが、自分をうんと不自由にしてしまう、そんなことって日常でいくらでもある。


だから出来る限りものごとに先入観を持たないようにしようと思っているし、

「そんなの常識でしょ」「みんなそうだよ」を前提にしないようにしている。

ちょっと表面を見ただけで、分かったつもりになって分類してしまったりしないように気を付けている。

あるいは、「そういうものでしょ」と信じてきたことについて、なぜそうなのかな、どうしてそうしなくてはならないのだろう、と自分で考えてみるってこと。

分かりやすい例で言えば「男のひとって(あるいは女のひとって)こうだよね」と言わない、「そういう世代だから」で説明を終わりにしない、そんなことだ。

あくまでもわかりやすい例よ。


ちなみに私自身は自分についてそういう言われ方をするとかなりカチンとくるたちだ。

たとえ良いことでも、「女の人ってそうだよね」なんて言われようものなら「人口の半分はそうなのかよ⁈」とか言いがかりをつけたくなる。

ほかのことに関してはけっこう呑気と言うか寛容だと思うんだけどな。


勝手なもので、自分はカチンとくる割に、過去の私はけっこう習慣的に「分類して分かった気になる」ってことをやっていたと思う。

これは就いていた職の職業柄、ということも少しは影響していたと思うけど。

従事していた医療界ではその人がどんなタイプの疾患なのかをある程度カテゴライズすることは当たり前だったし、

福祉においてもある程度はそういう考え方が必要だった。

(あくまでもある程度ね。特に福祉業界での安易なカテゴライズはとても危険だ)。

職業上「必要な情報を得て分析し、ある程度分類して対処を検討すること」と、

個人的に「ちらっと見て分かった気になる」とは全く別のことだ。

でもさ~、これがね~、けっこう混同しやすいのよ。

私はたぶん「必要な情報を得る」が「ちらっと見て分かった」にすり替ってたんじゃないかな。経験的に分かるんだ、みたいになってさ。

それを経験を積んだ賢さだって思ってたしさ。


私の場合はそんなものの見方が日常化してた。かなり浅はかに。

よく知りもせずに「ああ、あれね」とまず何かに当てはめてしまう癖。

ほんの少しだけの情報で勝手に分析し、自分の知っている枠で分類して分かったつもり、みたいなこと。その奥にあるものを知ろうとしない。その奥にそれぞれのストーリーがあるって想像さえしない。


職を離れてすいぶん経つまで、それが習慣になっていることに気が付きもしなかった。

それが自分をものすごく不自由に縛っているってことを知らずにいた。


いつ、なぜ、それに気づいて変えて行こうと思ったのか、覚えていない。

自由でいるってことについて、いつもどこかで意識していたから、何かを経験するたびにだんだんと気付いたのかな。

とにかく、その時その時柔軟に人やものごとを見て、必要なら理解を深めよう、その上で自分の考えを持とう。

そんな風にスタンスが変わっていったと思う。


創作においてそのことはとても重要だった。

思い込みが強いとアイディアの幅も狭くなるし、使える技法も使い切れない。

自分で足かせを作ってその範囲で満足してしまう。

決めつけてしまえばそれ以上のことは何も出来ない。

創作は息苦しいものになっていく。

そんななかで、なんだ、こうしたって良かったんだ、ってちょっと気づくだけでその先の世界がガラッと変わっていく。

作れるものが増え、創作の喜びは広がると同時に奥深くなる。

実際のところはこうと決めつけない、ただそれだけのことでも、実行するのはとても難しい。

なにしろ私たちはたくさんの「××な筈だ」を積み重ねて生きているのだ。

そこに合っているものには安心し疑問を持たない。

そこから外れるものは正そうと思ったり、糾弾したくなったり、時に憎んだりする。

だから、自分が決めつけているんじゃないかなって気づくことすら難しい。


私自身、きっと今だって思い込みで何かを判断していることはたくさんあると思う。

ただ、まずは「自分って××な筈だをたくさん抱えている生き物なんだ」って自覚するだけでも、ちょっと立ち止まって考えるチャンスは増える。

それでその後の生き方はずいぶん変わったと思う。自由だと感じられる方向へ。

たぶんね。


それまで思い込んでいたことをそうとは限らないよね、としていくと、見方によってはテキトーになったと言えばかなりそういう面もある。

物事を自分の物差しで計っては、ズレのあることを「なんとかしなくてはならないもの」として取り込むようなことをしないから。

多くのことを「まあ良いんじゃないの」「そんなこともあるんじゃないの」「なにか事情があるんでしょ」と、そのへんにフワフワさせておく。

そんなこともあるだろうと浮遊させておく。

テキトーは楽だ。

一方でテキトーは苦しい。自分が世界のつまはじきの役立たずみたいにも感じることもある。

テキトーはテキトーな割に、自分がなんとかしようとしないという覚悟が要る。

テキトーは時に孤独だ。


でも、私はテキトーを選ぶ。

「××な筈だ」のもたらす安心と不自由より、テキトーのもたらす楽チンと苦しさの方を選ぶ。


はい、これがこころのありかたをととのえる、のもっとも大きなところです。

書いているうちになんだそりゃ、みたいになってきてしまった。

まあとても正直に書いたから、それで良いかな。

願わくば、私のこの自由でいたいという思いのたどり着く先に、人や世界への本当の優しさがあると良いな。

私はあるんじゃないかなって思ってる。


色んな素材を並べて刺繍していたら、偶然天然石のさざれがぽんと飛んで、とりあえず完成したと思っていたモチーフの上にのった。

それがとても美しくて、何か足りないんだよなと思っていたのがふっと埋まった瞬間だった。

私がなんかな~と思いつつもどうにかしようとしなかったもの。

こんな風に解決するとはね。

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