こんにちは~、アーティストchiguです。
オートクチュール刺繍、手紡ぎ&手織りで作品を制作しております。
昨日の記事を読み返してみて、ちょっと足りないことがあったな、と今日は追加。
制作のためにこころのありかたをととのえるってどういうことかって話ね。
昨日は自分のなかに何を取り込むのか、なんとなくではなくて、その都度向き合って選ぶようにしている、という話だった。
それとも関係あること。
作品に、妙なエネルギーを載せないようにしたい、と思ってる。
そのために日常生活もこころのありかたもととのえておきたい。
簡単に言えば、「あー、さっきはイライラしたなー」なんて思いながら刺繍台に向かって、
そのままの状態で制作してしまうようなことはしたくないってことね。
そのくらい具体的ならまだ良いのかも知れない。
怖いのは、無自覚にため込んだ、自分のなかの負のもの。
そんなものがこころの表面のあたりにふわふわと浮遊している状態で
自分のなかにあるものをすくい上げて表現しようとすれば、
それらがまずキャッチされてしまう。
刺繍の一刺し一刺しに、モヤモヤやイライラや怒りが縫いこまれる。
これがしっかり自分のなかに経験として吸収されて、
とけこんで自分の一部になってしまっていれば、
もう負のものとして私から発せられることは無いと思うけどね。
もちろん、怒りを表現する、イライラが表出される、たった今のありのままの自分をぶつける、そんな作品のありかただってある。
でも私はもっと熟成されたものを表現出来たら嬉しい。
今はそんなものを作りたい。今はそんなものをお届けしたい。
ここで昨日の「自分のなかにどんな情報を取り入れるかということについて無防備にしない」という話が関係してくる。
昨日も書いたけれど、世に溢れる情報には必ず他の人の視線と意図が含まれる。
残念なことに、目につきやすいものには、感情を煽らんとする傾向が多い。
たとえば、誰かの失敗を皆さんに知らしめてさあ叩こう、このネタなら怒ってヨシ、サンドバッグいかがですか?みたいなものだ。
怒りだけじゃない。ほら悲しいよね、ほら、喜ぼうよ、ってことでも同じ。
キャッチーと言うことなんだと思う。
私はこういうものがすごく苦手で、見聞きするとけっこうな負担がかかってしまう。
怒ったり悲しくなったりして負担なのではなく
それ以前に、ちょっとした情報の向こう側の誰かの意図が、重いのだ。
とくに、見る人に特定の何かを感じさせようという意図は。
感動させようと作ったものと、作った結果感動するものって違うんだよね。
前者は私にとって、タイトルやキャッチフレーズだけでも疲れる。
おなかいっぱいになってしまう。
・・・こ、こう書いてみると軟弱だな~。ははは。
まあでも、とりあえず私はこんななのだから仕方ない。
少なくとも、そういった「他人の意図がバリバリ」のものに日々自分をさらして、
それらが知らぬ間に未消化のままごっちゃに溜まってしまったような状態から作品を作ろうと言う気にはなれないのだ。
それが、作品に妙なエネルギーを載せないようにするってこと。
だから、日常的に触れるものには気を付ける。
だから、瞑想を習慣にして、自分が今どんな位置にあるのか、視界を明瞭にする。
リラックスしていながら自分に向かって覚醒した状態で作れるように。
今、ガーネットのさざれを縫いとめている。
相変わらずなんだか分からないものを刺している。
これはどこからやって来たのかな。とてもきれいな子だよ。